消費者金融の発祥とその歴史
消費者金融の起源
金融業という形はすでに平安時代には存在していたといわれています。
そして鎌倉時代に入ると、質草という担保を取って貸し付ける質屋という形が主流になってきます。
江戸時代でも金貸しといえば質屋が主流で、時代劇に出てくるような悪徳なイメージからも、金貸し=悪徳といったイメージが多くあるようになりました。
しかし、現代になり物の流通が盛んになって、だれもが同じようなものを持ち始め、大量生産・大量消費の時代に入ると、質草になる物の価値が低下し、質屋ではあまりお金を借りられない、質屋もお金を貸し出せないという状況になり、衰退の一途をたどっていきます。
質屋の衰退に伴い、ついに現在の消費者金融のもととなる貸し付けが行われるようになります。
1960年になり、呉服店だった「丸糸呉服店」を質屋として再興した「丸糸」によって、質草を担保とする「対物信用」ではなく、勤め人の信用を担保とする「対人信用」で融資を行うという画期的なシステムが試験的に開始されました。
この勤め人の「信用を担保」とする新しい金融システムが、消費者金融の起源といわれています。
終身雇用が当たり前の当時の日本においては、勤め人であるということは、毎月決まった収入が必ず入ってくるというを保証していることであり、翌月の返済への大きな信用になると見込んでのシステムでありました。
この画期的な金融システムは多くの消費者に受け入れられ、丸糸はこの金融システムを専業とし事業を拡大させていき、のちに「アコム」と名を変えることになります。
ハイリスクハイリターンの消費者金融
通常の銀行等での借り入れは、保証人や担保が必要となります。これは、返済不能になった時に代理で支払ってもらったり、担保を現金化して返済に充当するためです。
つまり、借金の返済不能によるリスクを保証によって防いでるわけです。
対して、消費者金融は一般的に、少額のお金を個人の信用を担保とすることで、担保や保証人を付けないで貸し付けを行います。
お金を貸し付ける側にとって、返済されず貸倒れることが一番のリスクです。
例えば50万円を18%でかすと、年間の利息収入は9万円です。
同じく、18%で50万円を5人に貸すと、貸し付け金は250万円、利息収入は45万円になります。
しかし、それは全員がしっかりと返済を行った場合です。
もし、5人のうち4人は利息と元金を1年でしっかり返済してくれましたが、たった一人でも一切返済せず貸倒れる人がいたらどうでしょう。
4人からの利息収入は36万円ですが、たった一人返済しないだけで、50万円のマイナスができてしまいます。
5人に貸付を行っても、たった一人が返済しないだけで一気に14万円もの赤字になってしまいます。
実際には、5人に貸し付けるための手間や人件費もありますので、赤字被害はもっと大きくなります。
貸付をするにあたって貸し倒れのリスクというのは非常に大きいのです。
消費者金融は少額とはいえ、1万円2万円ではなく、数十万円のお金を融資することが一般的で、それを個人の信用状態を審査してからとはいえ、無担保、無保証で貸し付けるのですから、その貸し付け行為がいかに危険を伴うかがわかります。
しかし、その一見かなりのハイリスクにも思える貸し付けであっても、かつては金利が109.5%と今とは比べ物にならないくらい高く、そのリスクをとってもリターンも大きかったわけです。
まさに消費者金融はハイリスクハイリターンな商売だったわけです。
社会問題化した消費者金融
そのリスクの大きさと当時は銀行も非常に儲かっていたので、銀行が取り扱うとこがなかった一般消費者向けの小口無担保融資。
しかし、以前は109.5%という今では考えられないくらいの超高金利ということもあり、当時サラ金といわれた消費者金融は、そのリスクをとって多くの貸し付けを行いました。
極めて高い金利もさることながら、今では当たり前にある様々な規制などの法整備も以前は厳しく行われてませんでした。
そのため、返済不能のリスクをとって貸し付けを行う消費者金融は、今では考えられないような強引な取り立てが当然のごとく多く行われていました。
実際に当時の消費者金融のイメージはとても悪く「サラリーマン金融=サラ金」と呼ばれ、怖い悪徳な金貸しというようなイメージでした。
大手といわれるような会社でさえも、法による規制もなかったため、程度の差こそあれ強引な取り立ては当たり前のように行われていました。
大手でさえ、そのような状態ですから、中小の消費者金融がどのような実態であったかは、想像に難くありません。
消費者金融側からすれば、貸し付けたお金を返してもらってはじめて利益が出るわけですから、最大のリスクである返済不能による貸倒れは最も避けなければならない事態ですので、法規制がなければ暴力団の様な業者ではなくても、少々強引な取り立てをしてでも回収に走るというのは必然かもしれません。
しかし、消費者金融側も利益を追求するあまり、返済能力を大きく超えた貸付を行ったり、その取り立てが強引過ぎたため、多重債務となる人が増え、昼夜かまわず行われる強引すぎる取立ての結果、数多くの夜逃げや自殺者まで出すようになり「サラ金地獄」という言葉も生み出す社会問題となりました。
そのようなサラ金問題を受け、昭和58年にはついに「貸金業の規制等に関する法律」が作られ法整備が行われます。
法整備による規制
社会問題となった「サラ金問題」を受けて昭和58年に定められた「貸金業の規制等に関する法律」では、大きな規制がなされました。
一番の規制は、貸金業者が登録制になったことでしょう。
それまで、届け出さえ行えばだれでも貸金業を行える状態にあったため、その高金利ゆえ暴力団の資金源となっていることも少なくありませんでした。
登録制にして身元を明確にすることで、犯罪的な行為への牽制を図ることになりました。
同時に名義貸しも禁止されたことで、身元が明確でない人物が他人に営業をさせることも出来なくなりました。
また、過剰貸し付けによる多重債務者や、昼夜問わず行われる取り立てによる自殺も多く発生したことで、返済能力を超えると思われる過剰貸し付けの禁止や、恫喝したり、私生活や業務を乱すような取り立ての禁止なども盛り込まれました。
同時に、出資法の上限金利の段階的引き下げも決められ、1983年11月1日~はそれまでの年109.5%から年73%に、1986年の11月1日~は54.75%に、1991年11月1日~は40.004%にと段階的に引き下げられました。
バブルの崩壊と消費者金融の拡大
1990年初頭にバブルが崩壊すると、それまでのお祭り騒ぎのような好景気が嘘のように日本は一気に不況へと突き進みます。
不況は一般家庭にも浸透、経済的な苦境に立たされる家庭が多くなり、消費者金融の需要は増えていきました。
さらに、1993年には自動契約機を導入、直接人と会うことなく契約ができるようになり、1995年に深夜帯のみでの放送となっていたcm規制が緩和され、ゴールデンタイム等でも放映ができるようになると、消費者金融の認知度は飛躍的に上がり、利用者も大きく増加していきました。
時代の追い風に乗って拡大していった消費者金融は、上場する会社が現れるまでになり、大企業ともなった大手会社は業界を挙げて、かつての「サラ金」と呼ばれた時代のマイナスイメージの回復に努めはじめました。
そして業界団体の設立や、自主規制など業界の正常化にも力を注ぐようになります。
業界の再編成とヤミ金の拡大
2000年頃には、全国信用情報センター連合会(全情連・現信用情報機関)加盟の情報センターである、CICや全国銀行個人情報センターの「ネガティブ」情報の交流「CRIN(Credit Information Network クリン)」が開始され、より正確に顧客の情報を把握できるようになり、過剰融資やトラブルの防止が図らるようになりました。
しかしながら、すでに基盤を大きくし、優良顧客への貸し付けへとシフトしていっていた大手6社などは、リスクをさらに減らせることで経営と顧客の健全化に繋がりましたが、ある程度のリスクを取って貸し付けを行ってきていた、大手以下の消費者金融業者などは、急速に業績を悪化させ、倒産や大手による買収といった事態にまで陥っていきました。
時を同じくして、2000年に出資法も改正が行われ、上限金利が40.004%から29.2%へ引き下げられたことで、大手よりも比較的リスクを取って貸し付けを行っていた中小の消費者金融業者のダメージは小さくなく、さらに撤退や倒産に追い打ちをかけることとなりました。
リスクを取って貸し付けを行っていた中小の会社が、倒産撤退したことで、大手の貸付基準に漏れてしまう消費者は借入先をなくしてしまいました。
そしてそれと入れ替わるように台頭してきたのが、ヤミ金でした。
大手が貸し付けができなかった層をターゲットとして、ヤミ金は一気に勢力を拡大させていきました。
ヤミ金と一口に言っても、さまざまなタイプのヤミ金が存在していました。
ちらしやDMなどで集客している、登録さえもしていないヤミ金業者
広告などをスポーツ紙や雑誌に掲載するために、登録自体はしているものの、実際は法定金利以上で貸し付けを行ったり、他社を紹介して手数料だけをだまし取る紹介やといわれるヤミ金も台頭してきました。
携帯電話の普及により固定電話の受付窓口を持たず、連絡先は携帯のみという、090金融といわれた業者も生まれました。